ブチャナラ小説2話目です。





『イタリアの夜の太陽 -中編-』


ブチャラティの家に来て何度目かの朝だ。
まだ眠りから覚めきれず、ぼんやりとした意識の中で、コツコツと言う音が聞こえる。
ブチャラティが歩く時のヒールの音だ。
あの赤茶色のタイル床に、踵の音が響いて心地いい。
最近はこの音で目覚めるのが日課だ。
ベッドから滑り降りると、あくびをしながら中央の部屋へ行く。
「おはよ、ブチャラティ」
「ああ、おはよう」
挨拶を交わして、朝食の準備を手伝う。
ブチャラティは朝が弱いようで、いつもと違って動作がゆっくりだ。
朝食の後のブチャラティはどこかへ行ったり、すぐに戻って来たかと思えば、また深夜に出て行ったりなど、行動はまちまちだった。
それでもこの朝食の時間と、夜ナランチャが寝る時間だけは家に居た。
おそらくわざわざそうしてくれているのだろうと言う事は、なんとなくナランチャも分かっている。
今日は食器の片づけが終わると、家の鍵を取ったので、どこかに出かけるのだとナランチャは思った。
「ナランチャ、そのまま出れるか」
「え?俺も出掛けんの?」
「いつまでも俺の服を着ている訳にもいかないだろう」
着の身着のままこの家に来たので、ブチャラティの服を裾まくりしながら使わせてもらっていた。
本当は外に出たくなかったのだが、好意を無駄にしたくないと言う気持もある。
「行こう」
ブチャラティがそう促すので、ナランチャも続いて玄関を出た。
外は眩しいほどの快晴だ。
来た時は気付かなかったが、庭先から遠くに海が見える。
透明度が高く、まるで船が地面から浮いているかのように見える海だった。
しばらく目線をそちらに奪われていると、声を掛けられて振り返る。
どうやらブチャラティは車を出していたようだった。
走りながら近寄ると、目を輝かせながら助手席に乗り込む。
「すげーキレイだな!泳ぎたくなる!」
「海に来たことが無いのか?」
ナランチャを拾った場所からここまで、遠いと言う距離でもない。
車やバスがあれば来れる範囲だ。
「もしかしたら昔来た事あるのかもしれないけど、忘れちゃったよ」
そう言って目線を伏せ、車が発車すると、窓の外の風景ばかりを見ていた。
ナランチャはとても狭い世界で生きて来たようだった。



車から降りしばらく歩くと、見た事がある風景が続いた。
すぐにナランチャは、ここがどこだかを思い出す。
もう何年も前の事になるが、この辺りはナランチャが、盗みや残飯を漁っていた地域だった。
(うわー・・・ヤだな)
先ほどの意気揚揚とした気分から一転して、ナランチャの表情が暗くなって行く。
店員が、店の中から見ている気がする。
きっと物を盗られまいか見張っているのだ。
ナランチャは頭一つ分高いブチャラティを見上げた。
「どうした、ナランチャ」
「なんでもないよ」
ブチャラティは知らずに連れて来たのだろう。
目線を伏せ、なるべく顔を見せないようにする。
ブチャラティに迷惑をかけてはいけないと思ったからだ。
「この店でいいか」
服飾店の前で立ち止まったブチャラティに、ナランチャは見もしないで頷いた。
ブチャラティが店に入り声を掛けると、年配の女性店員がやって来る。
「あら、久しぶりですね。ブチャラティ」
「しばらくだったな。何か変わった事はなかったか?」
「最近はおさまったんですが、ちょっと前まで路面に出していた服が・・・」
そこまで言いかけて、女性店員はブチャラティの背後に居る人影に気付いたようだ。
「おや、どちらの子供ですか?」
「ガキじゃねぇよ!」
ばっと顔出してしまい、しまったと思って一歩後退した。
女性店員の瞳に自分の姿が映る。
すると急にナランチャは冷や汗を掻いて、そのまま二歩、三歩、と後退した。

「ナランチャ・・・?」

ブチャラティの呼ぶ声も無視して、ナランチャは踵を返し突然走り出した。
どこに向かっているのか、自分でも分からない。
全速力で通りを駆け抜けた。
やがて足が疲れて小走りになり、大通りが見えた所で立ち止まる。
「あれ、やべぇ、ここ」
どこだ、と周囲を見渡すと、道行く人間がナランチャを見た。
実際に見たのかは分からない。
ただナランチャに、見られている、と言う凄まじいほどの強迫観念が襲った。

(俺を見ている)
(俺の親の事を知っているのか)
(目の病気を話したのはアイツだけだったはず)

足が震えて冷や汗が止まらなかった。
急に視界が暗くなり、一瞬でも気を抜くと倒れてしまいそうだ。
引きずるように数歩後退すると、何かが肩にぶつかった。
歩行者の男性が、邪魔そうにナランチャに舌打ちをしてまたどこかに歩いて行く。

(きっとあの男も知っているんだ)
(母さんの病気の事を)
(俺も死ぬんだ)

叫び出したい衝動を必死にこらると、足元のバランスを崩して転びそうになる。
「ナランチャ!」
背後から名前を呼ばれ、はっと我に返った。
寸での所で倒れなかったのは、ブチャラティが支えてくれたからだ。
「・・・ブチャラティ」
ブチャラティは息を切らしていた。
走って追い掛けて来てくれたのだろう。
ブチャラティの服を震える手で掴み、青ざめた表情で声を絞り出す。
「俺・・・」
謝罪や、理由が、何も言葉になって出て来なかった。
その代わりに、言う必要のない言葉がぼろぼろとこぼれる。
「信じてたのに。蹴られて避けられるんだ。俺もきっと母さんと同じ病気で」
「違う!」
強い口調で否定され、ナランチャは口を閉ざした。
ブチャラティは目線を合わせてこう言った。

「ナランチャ。親は親、子供は子供で、過去は過去だ。」

ブチャラティの真剣な想いが瞳から伝わってくる。
ナランチャは見開いた目に涙を薄ら浮かべながら、絞り出すような声で言った。

「・・・本当は誰の事も疑いたくないんだ」

悲痛なほどのナランチャの訴えに、ブチャラティも苦悶の表情を浮かべる。
今にも泣き出しそうなナランチャの肩を強く掴んだ。
目線を合わせ何か声をかけようとするが、言葉として紡がれる事は無かった。
とりあえず人目を避けない事には、ますますナランチャが混乱する。
ブチャラティはそう思い、ナランチャの背中に手を回し歩き始めた。
細い路地に入る頃には、人の気配は無くなっていた。

「このまま真っすぐ行けば、車のある場所に戻れる」
一度止まって、ナランチャが落ち着くまで待ち、背中から手を離した。
「大丈夫か」
「・・・うん、ありがと」
ブチャラティは一度頷いて、またゆっくりとした足取りで歩き始める。
そして車までたどり着くとナランチャを乗せ、少し待っていろと言い残し、ブチャラティはそのままどこかへ行った。
程なくして戻ってくると、運転席に乗り込んだ。
「どこかでメシでも食って行こうかと思ったんだが、どうする?」
「・・・帰りたい」
「自分の実家にか?」
ナランチャは首を振った。
「ブチャラティの家に」
ブチャラティは小さく笑ってナランチャの頭を小突いた。
「そうしょげるなよ」
ブチャラティがそうやって茶化してくれたから、ナランチャも少し落ち着きを取り戻したようだった。


そんな一件があって、ブチャラティはもうナランチャを外に連れて行く事はしなくなった。
年の差は3つしかないのに、二人の関係はまるで親子のようだ。
ナランチャもブチャラティが居れば安心した。
夜に小さな明かりを付けて眠るのも、ヒールの音で起きるのも、ナランチャの生活の一部になっていた。
それともう一つ、生活の一部になっている事がある。
ブチャラティに勉強を教わる事だ。

「勉強をするのはいい事だ。自信がつく」

ブチャラティにそう言われ、ナランチャはそれを信じた。
信じる事で、救われていたのかもしれない。



ある夜、ナランチャは食卓で文字の勉強をしていた。
ブチャラティも近くの別の机で、何かを書いて居るようだった。
恐らく仕事関係のものなのだろう。
悪気はなかったのだが一度だけ、書面の文字が見えた事がある。
ナランチャにも分かった単語は、ポルポ、と言う人名だけだ。
仕事の仲間なのかもしれない。
ナランチャが紙に文字を書き殴っていると、はらりと前髪が落ちた。
随分長い間散髪をしていない。
鬱陶しくなって、前髪を掻き上げて掴みながら勉強を続けた。
するとふとノートに人影が落ちる。
「邪魔そうだな」
ブチャラティはナランチャの背後に回ると、頭に布を巻き付け始めた。
「何コレ。借りていいの?」
「ああ。この間の洋服屋の店主がくれたんだ」
窓ガラスに写る自分の頭を見ると、オレンジ色のターバンが巻かれていた。
綺麗な色で一目で気に入った。
ブチャラティはナランチャを車に戻した後、一人で服を買いに行ってくれたらしい。
ナランチャが今着ている服もその時のもので、サイズはぴったりだ。
「ありがと」
視界がすっきりしたような気がする。
ブチャラティがこちらに来たついでに、ナランチャは分からなかった所を質問した。
「この字なんて読むんだ?」
ブチャラティは机に手を付き、本を覗き込む。
「それは”ウソ”って字だ。うそつきの嘘だな」
「ふぅん。・・・俺も散々言われた。嘘つきだって」
「なぜだ?」
「警察でさ。本当にやってないのに、そう言うと嘘つき呼ばわりされんだ」
だから覚えやすいな、と言ってナランチャは笑った。
「その場に俺が居ればよかったな」
「なんで」
「俺はどんな嘘も見抜く力がある」
ナランチャは丸くした目をブチャラティと合わせる。
ブチャラティが真面目な顔をしてそんな事を言うもんだから、声を上げて笑ってしまった。
「あっはは、ブチャラティって顔に似合わずけっこう冗談言うよなー」
するとブチャラティも少し笑った。
そして思い出したように、話題を切り替える。
「そう言えば明日からしばらく、出かける用があって留守にするんだが・・・大丈夫か?」
「え?あ、そうなの」
一瞬間を置いてしまう。
快諾出来なかった事を取り消すように、ナランチャは慌てて口を開いた。
「全然ダイジョウブだよ!そんなガキじゃねーんだからさー。留守番くらいできるって」
「いつ戻れるか分からないんだ」
「そ、そう、そっか。気を付けてね」
「カネは置いておくから、何かあったら使え」
「んなの気にしなくっていーって。メシなんかどうとでもなるよ」
「あと」
「ん?まだ何かあるの?」

「自分の家に帰りたくなったら、俺を待たずに帰れ」

ナランチャはしばらく、無言のままブチャラティの瞳を見つめた。
そして言葉が零れ落ちたように、分かった、とだけ呟いた。


次の日の明け方、ナランチャの眠りが浅くなってる頃に、コツコツ歩くヒールの音が聞こえた。
段々遠くなり、玄関の木製の扉が開く音がする。
扉が閉まる前に、ヒールの音はそのまま止まった。
まるで何か後ろ髪を引かれているかのように。
しばらくすると扉は閉じて、そして車のエンジン音が聞こえ、どこか遠くに消えていった。
ナランチャはこの家に一人になった。




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